健康観

岩井圭也さんの記事を読んで気づいた「幸せ」について

お知らせ

人にとっての幸せとは何か?30歳を超えてから考えることが多くなりました。

近所で遊んでいる保育園や小学校に入りたての子供たちはなんだかいつも幸せそう。くらべて、横にいる大人はどこか疲れているように見えてしまうことがよくあります。もしかしたら、体と心の成長は、幸福と反比例してしまうのかもしれない、子供たちを見ているとそのようにも思えてきます。

世界の国々と比べて幸福度が高いとは言えないこの国で(2023年、日本の幸福度は137カ国中47位)、幸せであるためには何が必要なのか。人々が高い幸福度を感じている北欧の文化を生活に取り入れたり、幸福について書かれた書籍や記事から学びを得ようと、無意識にアンテナをはっていました。

作家の岩井圭也さんが書かれた『書くことと居場所』という記事は、幸せについての内容ではありませんが、私にとっての幸せとは何か?という問いへの一つの答えになっているように思いました。一人一人、幸せの価値観に違いはありますが、私以外にも何か気づきを得る方がいるかもしれないと思い、岩井さんが書かれた記事をシェアさせて頂きたいと思います。

『書くことと居場所』

物心ついた頃から、「なんとなく居場所がない」感じを抱いていた。

私にとって、自宅や学校といった環境は特段不安をかきたてられたり、抑圧されるような場所ではなかった。それでも、どこに行ってもアウェーのような感覚がうっすらつきまとっていた。このことを人に話すと、共感してもらえることがある。「なんとなく居場所がない」という感覚は、現代人にある程度共通しているのかもしれない。

そもそも「居場所」というのはどういう意味だろう。ここでは、『心理臨床と「居場所」』(創元社)という書籍で中藤信哉氏が示した「安心でき、自分らしくいられる場所」を「居場所」の基礎概念としたい。つまり居場所がないということは、安心できず、自分らしくいられる場所がない、という意味になる。

ではどうすれば、そうした状態から脱することができるのか。私は、「書くこと」によって誰でも居場所を得られるのではないかと思う。
ここでいう書くものは、ジャンルを問わない。日記、小説、エッセイ、詩歌、ノンフィクション、なんでもいい。なぜなら、何を書こうとも必ず文章にはその人自身が滲み出すからだ。「書くこと」は、書き手の人生を綴ることに他ならない。上手下手とか、技術の有無はもちろん関係ない。

書くという作業は、頭のなかにあるモヤモヤとした考えを、強制的に言葉に変換することである。なんとなく寂しい。なんとなく不思議だ。なんとなく不快。苦心しながらそんな気持ちを形にしているうち、「自分が考えていたことはこれだ!」という文章を発見することがある。そう。「書くこと」は自分の再発見につながる。

さらにここからが大事なのだが、自分を再発見することは、書き手を「安心でき、自分らしくいられる場所」へと導いてくれる。例を挙げよう。

ある少年は、どこにいても居場所のなさを感じていた。彼の趣味は小説を読むことであり、物語を楽しんでいる間は虚しさが紛れた。彼は成長し、青年となり、自分でも小説を書くようになった。挫折した夢や悔しかった出来事を文章に昇華させた。次第に青年は、過去への恨みや葛藤に整理がついていることに気がついた。彼は書くことを通じて自分を育んでいた。
書いた小説は新人賞に投稿したが落選し続けた。ネットに掲載しても反響はない。誰にも読まれていないんじゃないか、と思いながらも、青年は書くことをやめられなかった。他の誰のためでもない、自分の心を保つために必要な作業だった。青年は自宅のちゃぶ台の前であぐらをかき、キーボードを叩きながら、ふと思った。

「これが、ぼくの居場所なのかもしれない」

「書くこと」をはじめてから、いつしか青年の居場所のなさは薄れていた。誰にも介入されず、心おきなく内心を原稿に吐き出すことで、彼は「安心でき、自分らしくいられる場所」を獲得していたのだ。
お気づきと思うが、この青年は私である。

もし、私と同じように「なんとなく居場所がない」感じを抱いている方がいたら、何か文章を書いてみることをお勧めする。
学びの得られる文章や、愉快で気の利いた文章を目指す必要はない。そうした文章は読み手にわかりやすい「益」を与えてくれるが、それだけが文章の役目ではないし、人生は「益」だけで成り立っているのでもない。あなたの言葉であなたの人生を綴れば、そこには自然と、あなただけの居場所が立ち現れるはずだ。

この記事を読んで「自己表現は、幸せにつながるのではないか」と強く思いました。岩井さんは「書くこと」を勧めていますが、他者からの評価は関係なしに自分の本心を表現できる方法であれば、例えば歌、踊り、何かを創作すること、人に何かを教えることや導くこと、その方法は十人十色と思います。形がないものも、私で言えば瞑想も、自分の中で何かを表現している気がしてなりません。

自分の本心を表現することは、岩井さんの言葉を借りれば、「その人自身が滲み出す」ことだと思います。滲み出すまでに至るには繰り返すことが必要で、時間がかかるかもしれません。誰のためでもなく、自分のために表現し、自分自身が滲み出すことを続けていると、ある時にふと「ああ、生きているんだな」と、自分の生を、存在を、実感する瞬間が来るんだと思います。それが一つの幸せの形であることに気がつきました。

この記事を書いた施術者

 

関屋オステオパシー 代表 
関屋 淳 (sekiya jun)
【施術実績 (累計)】
理学療法士としてリハビリを1万人以上
オステオパシーの施術を2000人以上
2児の父として子育て奮闘中
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施術者紹介

関屋淳

2011年より、理学療法士として総合病院に5年間勤務。その後、5年間訪問看護ステーションに勤務し、延べ10000回以上のリハビリを実施しています。その間、オステオパシーの施術を2000回以上実施しています。

『自分と患者さん両方の体と心を豊かに。そして、その豊かさが周囲の人たちに拡がっていくように』そのような施術を目指しています。

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